(六)

 さぁそれでは、娘のお話を致しましょうかな。わたくしの命とでも言うべき、愛する娘のお話を。よろしいか!愛すると言いましても、娘でございますぞ。えぇえぇ、娘でございますからな。わたくしはですな、勿論作業場でございますよ、はい。上菓子の製作に汗を流しております。お通夜のお宅がございまして、そのご用意をさせて頂いております。と申しましても、殆どが出来上がっております。箱詰めの作業に勤しんでおりますところでした。ひと休みしたいのでございますがな、正直のところは。
 妻と娘がですな、仲睦まじくしている所など、見たくもありませんですからな。なあにもう暫くしましたらば、妻が店の方に出てまいりますですよ、はい。そうしましたらば、わたくしめが娘と談笑するのでございます。どんな話かと申されましても、ハハ、他愛もない会話でございます。
「毎日暑いけれども、体は大丈夫かい?」
「うん。」
「今日は出かけないのかい?」
「うん。」
「そうかい、家に居てくれるん・・」
「ごめん、約束があるんだったわ。」
 とまあ、こんな調子でございますよ。えぇえぇ、以心伝心でございますとも。長々と会話をする必要など、まったくございませんから。
 ある夜のことでございました。娘の妙子に、感謝の意味も込めまして
「洋服の一枚も買ってきなさい。」と、少しまとまったお小遣いを渡すことにいたしました。いえいえ、お駄賃はあげておりますですよ、毎回。なに、ほんの少しですから。は?洋服がミニスカートですと?誰がです!そのような不埒なもの、小夜子が買い求める筈がありますまいて。え?小夜子と言いましたか?妙子です、妙子ですぞ。そう申したのに。
「妙子や・・」と声をかけようとしますと、部屋から声が聞こえてまいりました。妻が、妙子と話しこんでいるようでございます。昼間にも話をしているのに、こんな遅くまでなにも・・。どうせわたくしの悪口を吹聴しているのでございましょう。
「で、どうなの?お父さんのお世話、キチンとしてくれてる?」
「勿論よ!いっつも、『ありがとうな』って、手を合わせてくれてるわよ。」
「そうなの、そんなに喜んでくれてるの。それは良かったわ、この先もお願いね。」
「うん、良いわよ。お駄賃だって、お小遣いもくれるしさ。でも、どうしてお母さんたち、仲が悪くなったの?以前は仲が良かったじゃない。お母さんが寝込んだ時、お父さんが寝ずの看病をしてくれたんだって?」
「そうね、そんなこともあったわね。女学校に入ってすぐだったわね。あの頃のお父さんときたら、観音様のように崇めるところがあってね。嬉しくなんかないわよ、重荷よ。お友達の前なんかでそんな素振りを見せられて、カッときたわよ。」
「ふーん、そうなんだ。ほんとにお母さんが好きだったのね。なのに、今は・・」
「そうなのよね。お母さんには思い当たることがないのよね。昔から本心を言わない人だったから。」
「それとさ、お母さんって恐妻家なの?お父さん、いっつも遠慮気味に話すじゃない?敬語を使ったりするじゃない?」
「恐妻家だなんて、とんでもない。お父さんが遠慮してるだけよ。ほら、お父さんって、奉公人だったでしょ?その頃のクセが抜けないのよ。」
「ふーん。コンプレックスがあるんだ。でもそれって、ある意味怖いよね。」
「あら、どうして?」
「コンプレックスが高じると、支配欲が生まれるんだって。ゴムボールをさ、抑え続けていくとね、限界点に達したらボン!って弾かれるでしょ?それと同じなの。人間の心も、同じなのよ。だからね、人を責める時は気をつけなくちゃいけないんだって。」
「へえー、そうなの。誰に聞いたの?先生?」
「う、うーん。同級生のお兄さん。すっごく頭の良い人。良いんだけど、時々訳の分かんないことを言ったりやったりするんだって。今ね、病院に入ってるらしいわ。」
「とに角ね、お父さんのこと、頼むわよ。お母さん、ちょっと体調が悪いみたいでね。お父さんは、妙子には大甘だからね。大抵のことは許してくれるから。」
「うん、任せといて。お母さんは、しっかりと養生して。」
 な、なにが、頼むわよ、ですか!頼まれなくても、妙子はわたくしの世話をしてくれますですよ。貞節な妻を演じるのは、いい加減にやめて貰いたいものです。そうでしょう、皆さん。罪滅ぼしのつもりなのでしょうかな、まったく。それに反して、娘のなんと優しいことか。養生してねとは、本当に心根の優しい娘でございます。

「だめです、そんなこと。許しません。だめなものは、だめです!」
「どうしてなの、お母さん。」
 突然に、妻の怒鳴り声が聞こえてまいりました。珍しくも、妻と娘で諍いが始まっております。
「だめ、だめ、だめですって!もうお店に出ますよ、お母さんは。だめですよ、お父さんに言っても。許してくれませんよ、そんなことは。第一、どうして今まで言わなかったの!今日の明日ということはないでしょ!」
 捨てゼリフというのでございましょうか、眉間にしわを寄せたまま出て来たのでございます。鉢合わせしないようにと、わたくし、慌てて作業場に戻りましたです。
「お父さん。お父さん、ちょっと聞いてよ。お母さんが、ひどいのよ。」
 娘が頬を膨らませて、バタバタと作業場に駆け込んでまいりました。
「これこれ。埃を立てちゃだめだよ、ここでは。どうしたいんだい、それにしても。何を血相を変えているんだい?」
「お母さんったらさ、『だめだ、だめだ』の一点張りでね。ちっとも話を聞いてくれないのよ。お父さんは、良いよね。ねっ、ねっ、ねっ。行っても良いよね。」
 わたくしの背中に抱きついての、おねだりポーズでございます。固さの残る乳房を押し付けてくるのでございますよ、はい。ぐふ、ぐふふ。
「どこに行くんだい?映画かい?何をお母さんはだめだと言ってるんだい。あ、そうか。一人はだめだよ。お友だちと一緒に行きなさい。」
 あたくしの早合点でございました。てっきり、映画を一人で観に行きたいと、駄々をこねているのだと思ったのでございます。
「勿論よ!お友だちも一緒よ。うぅん、先生も一緒なの。」と、口を尖らせます。
「先生もかい?だったら良いじゃないか。何をお母さんは、怒ってる?で、どんな映画なんだい?吉永小百合あたりかい?裕次郎と共演してる、若い人とかいう映画が面白いらしいじゃないか。」
「違うわよ、お父さん。合唱部の合宿なの。一週間の予定でね、みっちり練習してくるのよ。今度の大会ではね、みんなで力を合わせて優勝を目指すの。」
 目を輝かせて言いますです、はい。それはそれは、美しい顔でございます。
「ほぉ、ほぉ。一週間もかい?長いねえ、それは。」
「何言ってるの!初めは、十日間の計画だったのよ。でもね、学校側の許可が下りなくてね。仕方なく、一週間に縮めたの。」
「うん?学校でやるわけじゃないのかい?確か去年は、学校だったと思うんだがね。」
「だからね、それではだめなの!集中できないのよ。父兄がね、差し入れだなんだって、毎日誰かの所から来るのよ。お母さんも来たでしょ?それで結果は、入賞はできたけれどもさ。でも今年は、最後だしね。絶対に、優勝したいのよ。それでね、全国大会に出るのよ。良いでしょ、参加しても。もう参加するって、届けは出してあるの。ねっ、ねっ、お父さんってば。」
 あ、あ、あゝ・・。甘美な囁きでございます。わたくしの耳元で、妙子が囁くのでございます。甘い吐息が、わたくしの頬にかかるのでございます。妙子の甘い香が、わたくしを包むのでございます。だめです、だめでございます。これ以上は、わたくしの理性も持ちませんです。
「妙子!」
 きつい声が、飛んでまいりました。又しても、妻の邪魔が入りました。あ、いえいえ、とんでもございません。良かったのでございます。でなければ・・。
「お父さん、良いって言ってくれたわよ!」と、娘が言いますです。いえいえ、とんでもございません。わたくしは、そのようなことなど申しておりませんです。とんでもないことでございます。しかし娘は、
「ねーえ、お父さん。許してくれたわよね。うん、って頷いてくれたわよね。」と、わたくしの背中から離れませんです。自分の体を左右に揺らせております。妙子、妙子や。止めておくれよ、いや止めないでおくれ。
「ほんとなんですか!」
 それはもう阿修羅の如き恐ろしい形相で、わたくしめを睨みつけますです。
「いや、あの、その・・」
 しどろもどろの返事しかできないわたくしでございましたが、
「とに角、わたし、参加するから。費用は出してくれなくてもいい。お友だちにでも借りてでも、何とかするから。」と、娘の妙子は強情を張りましたです。わたくしめが、妙子に責められている錯覚に陥ってしまいますです、はい。
「分かったよ、分かったから。銭箱の中から持って行きなさい。友だちに借りるだなんて、そんなことはさせられないよ。」
「ありがとう、お父さん。大好きよ!」
 あぁ、妻がその場に居なければどうなっていたことか・・。妙子の頬がわたくしの頬にぴったりとくっついて。妙子が声を出すたびに、わたくしの頬に妙子の唇が・・。
 失礼しました、申し訳ございません。お話を続けましょうかな。正直のところは、私も内心では反対でございました。いえ、妻の申すような心配事からではございません。私の反対の理由は、妻と二人だけの日々が苦痛なのでございます。又、娘と離れての日々を過ごすことが、苦痛であり淋しくもあるのでございます。己の都合だけからの反対心でございました。自己中心的だとのご指摘、その通りでございます。返す言葉もございません。
しかし、その頃の私には、娘の居ない日々は考えられなくなっておりました。正直のところ、毎日の学校ですら苦痛でございました。片時も離したくない、そんな気持ちでございました。