愛の横顔 〜地獄変〜

(六)

 それから三年ほどでしょうか、むすめが二十歳の、秋の終わりでございました。女学校を卒業後、大学には行かずに勤めに出ておりました。そのことでも、妻とひと悶着ありました。わたしはもちろん娘の好きなようにするがいいと申し、妻は是が非でも進学をと言い張りました。妻の気持ちもわかりますが、いや本当のところはわたくしとしましても大学生活を味わってもらいたいと思ってはいました。しかし、娘に反対する勇気がなかったのでございます。正直、ほっとする気持ちがございました。
 考えてもみてください。大学といえば、それこそエリートとか呼ばれる男たちが通う場所でございます。品性のある、そして端整な顔つきの男たちが通う場所でございます。
そんなところに行けば、娘が、わたしの娘が……。失礼しました、これはお忘れください。幸い、わたしどもの取引先の穀物問屋にお世話になることができました。その穀物問屋は先代からの取引先で、妻も良く知っている所でございます。故にまあ、妻もしぶしぶ承知しました次第で。

 なのに……。突如なんの前ぶれもなくー陽射しの強い日曜日の夕方に、あたしの恋人だと、ひとりの青年を連れてきました。肝をつぶす、というのはこういうことを指すのでございましょう。ただただ驚くばかりでございます。妻などはもう、小躍りせんばかりに喜ぶ仕末でございます。わ、わたくしでございますか? ……そりゃあもう、嬉しくもあり哀しくもあり、世のお父さま方と同じでございます。ええ、本当にそうでございますとも。
 青年は二時間ほど雑談を交わしたのちに、帰って行きました。穀物を扱う商事会社に勤めるお方で、年は二十六歳のひとり暮らしとのことでございました。両親は、九州にご健在で弟ひとり・妹ふたりの六人家族ということでございました。青年が帰りましてから、娘は、しきりに青年の印象を聞くのでございます。
妻が、いくら「いい人じゃないの」と言ってみたところで、わたくしがひとことも話さないものですから、娘も落ち着きません。

 お茶をすすりながら、ポツリとわたしが言いました。
「いい青年だね。だけどお前、やっていけるのかい? ゆくゆくは、ご両親との同居もあるよ」
娘は、目を輝かせて「もちろんよ、お父さん!」と答えるのでございました。
 娘が進学を拒みましたのは、じつのところはこの青年が因だったのでございます。娘が申しますに、高校二年の夏に、お友だちふたりの三人で市営プールに行ったおりに、この青年と出会ったというのです。プールの監視員を務めていたとかで。友人の弟がアルバイトをしていたところ、急性盲腸炎で緊急入院をされたとか。その友人は海外出張だとかで、やむなく代理を務めることになってしまったのだとか。で、そのプールで、娘がよりにもよってこむら返りを起こしてしまい、青年の看護を受けたことが始まりだったようです。とまあ目を輝かせて、ことの次第を話してくれました。以後のことも、でございます。ああ、もう!

 その夜は、まんじりとも致しませんでした。「もちろんよ!」と、言い切ったときの娘の目のかがやきが、目を閉じると瞼の裏にはっきりと映るのでございます。それからのわたくしは、まさしく且つての妻でございました。顔にこそ出しませんが、心の内では半狂乱でございました。娘を手放す男親の寂しさもさることながら、じつは、正直に申しますと、娘に対して‘女’を意識していたのでございます。
 以前にお話ししたとおり、血のつながりのない娘でございます。もちろん、自分自身に言い聞かせてはおりました。「血はつながらなくとも、娘だ!」と、毎夜心内で叫んでおりました。しかし、崩れてしまいました。もろいものでございます、親娘の絆は。もっとも親娘はおやこでも……。
 それからのわたくしときましたら。娘の入っていることを承知で、風呂場をのぞいてみたり電気を消してみたり、とまるで子どもでございました。娘の嬌声に歓びを感じているのでございます。そんなことを、はじめの内は勘違いと思っていた妻も、たび重なるにつれ疑問を抱きはじめたようでございます。わたくしの行動に目を光らせるようになりました。そんなときでございました、あの、忌まわしい、そして、恐ろしい夢を見ましたのは。

 ある夜のことでございます。わたくしと妻は、ひとつの布団におりました。が、急に妻が起きあがるのでございます。あっ申しわけありません、夢でございます。ご承知おきください。まだ、べつの部屋での就寝でございます。わたくしの腕のなかからすり抜け、だれか男の元に、走っていくのでございます。一糸まとわぬ姿で、その男にすがりつきます。わたしは妻を追いかけるとともに、その男をにらみつけました。とっ! なんということでしょう、あの青年だったのでございます。娘の婚約者でございます。
 わたくし自身めが、そうなることを望んでいたが為のことかもしれません。そのとき、わたくしがどんな思いで妻を連れもどしたか、お分かりにはいただけませんでしょう。いえいえ、そのような単純な思いではございません。とても、これだけはお話しいたすわけにはまいりません。ただそののち、年甲斐もなく激しく嬌声を発しながら、力のあらん限りをつくし荒々しく抱きしめておりました。

 妻は、わたくしの、そのあまりの声に怯えたのか、はげしく悶えながら逃げようといたします。わたくしは、両手で顔をしっかりと押さえつけ、唇を押しあてました。そしてそこから、わたくしの熱い吐息を、そして男を注ぎこんだのでございます。妻はまえにも増して、激しくもだえ抵抗します。いまだに信じられないことなのですが、抵抗されればされる程に、激情と申しますか劣情と申しますか……。頭の先から足の指先まで全身をなめまわしたのでございます。ぐふふ、ナメクジが這いずりまわるがごとくにです。
 仲睦まじかったおりでも、そのような行為に及んだことはございません。どちらかと言えば、淡泊でございました。大恩あるご主人さまの忘れ形見だという思いが、あったのかもしれません。いえ、美しい女人を蹂躙してみたいという思いは、確かにございました。ひょっとして、ここにおられるあなた方のどなたよりも、そういった獣のような行為に憧れておりました。
 まだ赤線がありました頃には、足しげく通ったものでございます。お気に入りの娼婦がおりまして、その者に対しては口にするのも憚られるような行為をくりかえしたものでございます。えっ! ”どんな行為か?”ですと。うーん……。お話したくはないのですが。緊縛はご存じでございますか? いま風に申しますれば、SM行為のようなものでございます。いやいや、お恥ずかしいことでございます。

 申し訳ございません、お話をもどしましょう。全身をなめまわしておりましたおりに、ふと気がつきますと妻のからだに鳥肌が立っていることに気がつきました。こころなしか痙攣を起こしているようにも見えます。わたしは、思わず手の力をゆるめ、顔をあげました。が、なんということでしょう、これは。
――ああ、お願いでございます。わたくしめを、このカミソリで○してください。もうこれ以上の苦痛には耐えられません。そう、そうなのでございます。妻、だったはずが、娘だったのでございます。わたしは、犬畜生にもおとる人間、いや、鬼畜でございます。ふふん。しかし、あなた方だってそんな気持ちを抱かれたことはあるはずです。よもや、ないとは言われますまい。血のつながりのない娘でございます。わたしの立場でしたら、あなた方だって、きっと、きっと。ふふふ……。

 申しわけございません、取り乱してしまいました。お話をつづけましょう。
 その翌日、もちろん娘をまともに見られるわけがありません。その翌日も、そしてまたその次の日も……、わたくしは娘を避けました。しかし、そんなわたしの気持ちも知らず、娘はなにくれと世話をやいてくれます。そしてそうこうしている内に、結納もすみ、式のひどりも一ヶ月後と近づきました。娘としては、嫁ぐまえのさいごの親孝行のつもりの、世話やきなのでございましょう。わたしの布団の上げ下げやら、下着の洗濯やら、そしてまた、寄り合いどきの服の見立てまでもしてくれました。妻は、そういった娘を微笑ましく見ていたようでございます。なにも知らぬ妻も、哀れではあります。

しかしわたくしにとっては、感謝のこころどころか苦痛なのでございます。耐えられないことでございました。いちじは、本気になって自○も考えました。が、娘の「お父さん、長生きしてね!」のことばに、鈍ってしまうのでございます。本当でございますよ、ほんとうでございますとも。娘にお聞きください、妻におききください。じっさいに包丁を手首にあてたのでございますから。台所でございます。流しに手をいれて、必死のおもいで包丁を当てたのでございます。
 なにゆえと言われますか? ふき出す血をながすのに、一番の場所ではありませんか。お風呂場? ああ、お風呂場でございますか。なる程、それは思いつきませんでした。そうですな、お風呂場が良かったかもしれません。さすればふたりに気づかれずに、成就したかもしれません。
 お恥ずかしいことに、ふだん使いなれない包丁でございます。背の方を手首にあてがっておりました。ですので、切れないのでございます。まったくお恥ずかしいことです。そうこうしている内に、わたしめのうなり声を耳にしたふたりが……。