(五) わたくしがこれ程に妻を疑いますのは、このような事があってからのことでございます。お中元の品を百貨店に買い求めに行った折のことでございます。 「お昼には、遅くとも二時には戻りますから。」と、朝早くに出かけていきました。何時頃でございましたでしょうか・・。八時には、おりませなんだでしょう。 「十時の開店には、早すぎはしませんか?」と、わたくし申したのですが。 「早く帰りたいので、並んでいますよ。」と申します。まあそう言われれば、それ以上は申せません。わたくしとしましても、早く帰って店番をして欲しいものですから。 ところがです、待てど暮らせど戻りませんです。一時が二時となり、柱時計が三時を打ちましても戻りませんのです。車の事故にあったのでは?と思いましたが、それならば病院より連絡が入りますでしょうし。百貨店で何かあったのか、と心配になりました。で、電話をしてみたのでございます。 「そのような事故は聞いておりません。店内放送でお呼びしてみますので、暫くお待ちください。」とのこと。ですが、暫く経ちましてから、 「申し訳ありせん。一旦、お電話を切らせていただけませんでしょうか。ご本人様には必ずお伝えいたしまして、ご連絡を取っていただきますので。」と言われました。わたくしにしても気は急きますですが、ただじっと待つのもどうかと思いまして。お客様もお見えになることですし、何度も念を押しまして受話器を置きましてございます。 しかし又、待てど暮らせど、でございます。しびれを切らしたわたくし、百貨店に再度電話をかけました。 「大変申し訳ございません。どうやらお客様はねお帰りになられているご様子でございます。あれから二度ほど店内放送を致しましたが、ご本人様からのお申し出がございませんでした。」 「いやしかし、昼に戻ると、遅くとも二時には戻ると申した妻が・・。」とまあ、押し問答を繰り返しましても詮無いことでございます。で、妻の帰りましたのが、夜の七時過ぎでございました。 「遅かったね、心配しましたよ。」 「ごめんなさいね。女学校時代のお友達と、百貨店でバッタリ出会いましてね。で、数人のお友達に電話をしてね即席の同窓会を開くことに。」 明るく笑いながら申します。嘘だとは思いませなんだが、なにか釈然と致しません。 「でもね、百貨店に電話をしたけれども、放送は流れなかったのですか?何時頃だったか・・三時近くだったか・・」 「あらごめんなさい。百貨店には、お昼を食べるまででしたの。お友達のお宅に集まることにしたものですからね。で、ついつい長話しになってしまいましてね。お夕飯を一緒にしまして。えぇえぇ、あなたにはお寿司を買ってまいりましたから。」 「電話の一本でも入れてくれれば、わたしだって・・」と愚痴をこぼしましたが、妻が両手をついて謝りますので、まあそのままに・・。といいますのも、初めてなのでございますよ。あの折は、もう慌てはためいてしまいました。 「そ、そんな。手を上げてください。わ、分かりましたから。お嬢さまにそんなことをして頂くわけには・・。あ、いえ、お嬢さまじゃなくて・・」 その折は、その話を信じておりました。気が動転してしまい、何と申し上げたら良いのでしょうか。しかし、しかしです。今思いますれば、腹が立って腹が立ってならぬのでございます。きっとわざとなのでございますから。ああすれば、このわたくしめが、それ以上の詰問をしないであろうと、そう考えたに相違ないのでございますから。 で後日に、大木様からとんでもないお話をお聞きしたのでございます。俄かには信じがたいお話でございましたが。大木様が仰るには、あの国賊である足立三郎めが、刑務所から出所していたとのこと。使い走りの雑魚だった故に、左程の刑に服することもなかったようでして。こともあろうにその出所日が、妻が百貨店に出かけた日でございました。 「まさかとは思うけれども、二人の逢引だったのでは・・」と仰られて。まさしく青天の霹靂とは、このことでございましょう。 「しかしもう・・・」 「えぇえぇ、あなたの気持ちは分かりますよ。小夜子さんは、正夫さんの奥さまですものね。でもねぇ、こんなことを言ってはなんですけれど、あなたに嫁いだ折には、もう刑務所でしたものね。いえいえ決め付けることはできません。えぇえぇ、できませんとも。ねぇ、あたしの勘ぐりかも知れませんしね。いえ、きっとそうですよ。妙子ちゃんというお子さんもいらっしゃることだし。ただ・・その妙子ちゃんがね・・どうにもねえ。」 奥歯に物の挟まったような言い方でございます。どうにも気になりますです。 「大木様、どうぞ仰ってください。何が気になられているのですか?」 「正夫さん。あなた、ご存じないでしょ?あのアカのことは。」 「はい。名前程度でございます。勿論お会いしたことなど、一度も。」 「でしょうね、そうでしょうとも。実はねえ、こんなことを言っていいものかどうか。でもあなたは知らなくちゃね。万が一にもあたしの想像が当たっていれば、ほんとに正夫さんがお可哀相ですからね。あのね、妙子ちゃんですけれどね。正夫さんに似てらっしゃる所はあるかしら?大変失礼な言い方ですけど、まるで似てないのよね。」 上目遣いで、それは申し訳なさそうに仰います。 「はい、それはわたくしも思います。小夜子にそっくりで、わたくしも良かったと思っておりますです、はい。」 「そうね、そう思うのも無理はないわね。でもね、あのアカを見知っていたならば、そうは思われないでしょうね。」 「えっ?と、ということは・・」 「いえね、あたしがね、そんな風に感じるだけのことですからね。ほんとのところは、神様とね、それこそ小夜子さんだけがご存知なのですから。」 ここで少し大木様のことをお話しておきましょうか。なぜにこれ程までにあたくしのことを気遣っていただけるのか、皆様ご不審のことでしょうから。先にもお話したと思いますですが、お世話になりましたご主人様のお店のお隣にお住まいでございました。ご主人様とも華族同然のお付き合いをされていたお宅でございます。 ご職業ですか?はい、官吏様でございます。なんでも、お父上も官吏様でしたとか。ですので、大木家といえば、あのご町内では知らぬ者が居ないお宅でございます。ご家族様は、四人家族でいらっしゃいます。ご長男はもう独立なさっておられます。いえいえ、官吏様ではございません。大工さんでございます。えぇそりゃもう、ひと悶着ありましたそうで。 「勘当だ!」 「あぁ、結構!逆勘当してやるよ!」 売り言葉に買い言葉でございましようけれども、逆勘当などという言葉があるのでしょうかな。しかしまぁ、あの戦争で家を失ってしまわれた大木様に 「俺が建て直してやるよ。」と、声をかけられたのです。奥様は大層のお喜びでしたが、どうにも大木様のご機嫌が悪く 「お前のような半人前に建て直してもらうくらいなら、このバラック小屋で十分だ。」と追い返されてしまったとか。中々に頑固なお方でして、奥様も嘆いていらっしゃいます。 「清子に婿を取って、この家を継がせればいい。」というのが、大木様のお考えのようでございます。しかしいくら大木家と言いましても、正直あの清子さんでは・・。器量は、はっきり申しまして妻の足元にも及びませんです。まあそれより何より、足がお悪いのですよ。びっこをひいての歩かれる姿は、好奇の目にさらされておられます。 で必然、外出なさることもなく、日がな一日お部屋の窓辺にお座りでございます。わたくしめの部屋が、清子さんの窓から丸見えでございまして。夏の暑い夜には窓を開け放しておりますので、寝姿を見られてしまいます。申又一枚で寝ておりますわたくしでございます。初めの内こそカーテンの陰からこっそりと覗かれていた清子さんでしたが、ある日のことでございます。庭先でひと休みしておりましたわたくしめに 「お腹を冷やさないの?」と、声をかけてくださいました。そしてまた 「肌が白いのね、女の人みたい。」と、悪戯っぽく笑いかけてもくださいました。それがきっかけで、毎日のようにお話をさせて頂くようになりました。 「マーちゃん、マーちゃん。」と呼んでくださるようになったのは、程なくでございました。あれ程に人見知りなされる清子さんが、わたくしだけとは話が弾みますです。多分、あたくしを男と意識されていないのでございましょう。いえいえそれ以上に、下男のように思われているのでしょう。小夜子お嬢様のわたくしに対する振舞いを見ておられる清子さんですから。 「小夜子さんも、ちょっとよね。」と、よく慰めのお言葉をかけてくださいましたです。 自慢話をするわけではございませんが、こんな無学で不細工なわたくしめですが、 「娘を嫁に貰ってくれないかね。」と、大木様より有難いお申し出を頂きましてございます。はい、戦時中のことでございますよ。入隊後に、内地に留まることが決まりましてすぐのことでございました。有難いお話ではございますが、恐れ多いこととご辞退致しました。 「清子もねえ、納得してくれたんだけどね。残念だね、それは。ま、すぐにと言う話でもないから、じっくり考えておくれでないかね。」と、お言葉を頂きましたですが 「とんでもないことです、それは。清子さんは、天女様でございます。お忘れください、そのようなことは。」と、固辞させて頂きました。残念がられておられましたですが、分かって頂けましたです、はい。 えっ?本心でございますか?そ、それは・・。まぁ、よろしいではないですか。悪い気は致しませなんだですよ、それは。致しませんが、実は・・。右足がお悪くて、びっこをひいておいででございまして。は?あ、そうですか。お話しておりましたですか、そうでしたか。いえいえ、日常生活に困るほどではございませんよ。普通にお暮らしですから。はい?そこのあなた、やはり女性は鋭いですな。正直に申しますれば、小夜子お嬢様に淡い恋心のようなものを抱いておりましたです。 とんでもない!結ばれようなどとは、とんでもない。そのようなことは、露ほども考えたことはございません。ほんとでござい・・、申し訳ございません。チラリとは考えたこともございました。お店を畳まれるおつもりならいざ知らず、必ずや婿養子をお迎えになると考えてございます。そしてそれは、菓子職人であると確信しておりました。となりますと、千分の一万分の一は、このわたくしかもなどと、考えたりしたのでございます。いゃあ、そこのお方。女明智小五郎でございますな。参りました、参りました。 |