蒼い情熱  〜ブルー・ふらぁめんこ〜


1969年
1月18日 東大安田講堂陥落
3月30日 パリにおける焼身自殺。

1970年
3月14日 大阪万博の開幕。そして大盛況。

前年の東大安田講堂陥落が与えた、学生間に漂う閉塞感。
これらの衝撃に、突き動かされての作品です。
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 ひっそりと静まり返ったこの舗道には、少年の足音の他には何一つ物音がなかった。ほの明るく照らし出す街灯の下には、誰かを待っていたのだろうか、タバコの吸い殻が五、六本捨てられている。待ち人は来たのだろうか……。

 今日も又、星はまばたいている。満月になりかけの月が、その星のまばたきの中に、一人孤独だった。その図体の大きさの故に、星の中に溶け込みきらなかった。しかしそれでも月は、その大きさで以て、その星全てを威圧していたーその通り! まさに月を中心として星は流れていた。

 少年はタバコを口の中に一杯吸い込んでは、すぐに吐き出し、そして又吸った。舌にピリピリと刺激を感じ始めた頃には、吸い込んだ煙の少しを肺にまで流し込み、鼻から抜けさせた。少年は、たったそれだけの仕種に、いかにも大人になった、と感じた。

 鈍いネオンサインの光を頭上に感じると、少年のまわりには色々の音が生じ始めた。しかし、少年の耳に聞こえるものは何もなかった。終始黙りこくり、唯一つの扉に向かっていた。慣れないネクタイの結び目を気にしつつ、スーツの衿を正し、そしてレインコートの衿も立て直した。

 濃紺のスーツに、黒の革靴ーしかしそれは、鈍い光沢の磨きがいのない古びた靴だ。その靴が止まり、少年の手が扉に伸びる。どことなく中世的な香りの漂う、木目模様の縁取りのスモークガラス戸だった。銀色のノブが、その木目とは何か不調和さを与えている。

 少年が扉を押す。
 長身のボーイが、恭しく腰を屈めて迎え入れる。紅いビーロード地の幕をくぐり抜けると、まったくの別世界が現れる。青・赤・橙・紫……と、色の倒錯、交錯。そこでは、色の洪水だった。天井といわず壁といわず、その色はあらゆる物にしみ込んでいた。そして、爆裂音。あらゆるコミニュケーションを拒否するが如くに、それぞれの楽器がその存在感を主張する。

 ホールへと歩を進めると、数十人の若い男女達が焦点の合わない視線をお互いに向けている。しかしその瞳に彼らは居ない。その陶酔しきった目は、何を見ている? 体をエビのように折り曲げて、右手が上に行けば右膝が上に上がる。左手がだらしなく下に折れ曲がり、左足は床に着く。また体をエビのように折り曲げて、左手が上に行けば左膝が上に上がる。右手がだらしなく下に折れ曲がり、右足は床に着く。単調な繰り返しが、リズムに合わせて続く。♪ゴーゴー♪と言われる踊りだ。

 少年には、奇異に映った。
 テレビ画面では見ていたが、間近に見ると大迫力だ。二度目の今夜でも、やはり奇異に映る。何の変哲も無い単調な繰り返しの中に、若者はその膨大なエネルギーを費やしている。殆ど無表情に近い顔で、真っ赤に塗られた唇ーうっすらと開かれチラリチラリと覗く白い歯が、ある種の秩序さえ感じさせる。無軌道さの中に潜む、潜在的秩序ー整然と整理され、全てがあるべき場所に収まっている。そう!少年の部屋に潜む、潜在的な崩壊。

「よーお、坊や。また来ましたネ!」
 カウンターのバーテンの声と共に、少年の耳にはエレキギターの炸裂する破壊音ージェット機の発信音・破れかけた陣太鼓の音が、届く…。思わず耳を塞ぎたくなる不気味なー闇の中でどこからともなく聞こえてくる蛙の鳴き声のようなドラムとベースのシンフォニー。バズトーンと称される音が、店内を縦横無尽に駆ける。地獄の断末魔の叫び声のように、内蔵の一つ一つをえぐり出されるような声、ボーカル。Ray−Banのサングラスが、少年の目を捕える。

 それらが一斉に少年を襲った。
 さながら、戦争のような騒々しさー機関銃の連射・手榴弾の風切り音・砲弾の炸裂音は、至る所で若者を縛り付けているようだった。

「あのナァ! 昨日、あいつの所に泊まってよー、そんでよぉ―――!」
「えぇっ? 聞こえなーい。もっと大きくぅ!」
「ネェ、君。飲まないの? これ、低アルコールだよ。とっても、おいしいよ。」
「でも、……。私、すぐ酔っちゃうの……」
「よお! 何か面白いことないか? 毎日毎日、タイクツでさ。」
「ケッ! ぜいたく言いなさんな、踊ってりゃいいんだよ。ひと晩中踊りまくって、朝になったらおネンネさ。」

踊り狂う若者らそれぞれのカップルの声の応酬を耳にしながら、コーラをチビリチビリと少年は飲んだ。未成年の少年なれば、アルコールは厳禁だ。それが少年の少年たる所以だ。キョロキョロと落ち着かないそんな少年に、バーテンが、声をかけた。
「よお! オフェリアさんなら、ホレ、あそこの隅で踊ってるぜ。もっとも、今夜も誰かと一緒だがネ。」

 少年は、弾かれたようにバーテンの指さす隅を見やり、はっきりとはしないが、もつれあっている辛うじて男と女だとわかる二人を見つけた。そして少年は、陰鬱な顔を更に暗くし、何か呟いた。
「えっ、何だい? もっと大きな声で言えよ!」
「いいんです。」
 バーテンが、なおもしつこく聞く。
「放っといてください!」
 今度は、少年が強く言い放った。そしてミラーボールの光の中、身振り手振りよろしく大声を張り上げているバンド連を盗み見しながら、全くの不調和に指でリズムを取り始めた。

「おい! あのボーヤ、又来てるぜ!」
「あぁ、ホント。でもどうして? 踊るわけでもなし……」
「へッ。どうせ、踊れねぇのさ。」
「あの坊や、男か? それとも男装の女か?」
「さあね、…わかった! 中性よ!」
「こりゃいい、中性とは。そいつはいいや!」

「あの坊や、マキにまいってるって?」
「へーえ、あのマキにか?」
「そうなんだってね。でも、よりによって、マキにねえ。」
「何だい、マキなら誰とでもOKじゃないか。」
「それがね、あの坊やだめなのよ。じっと見ているだけなの。」
「ふーん、変わった奴ぅ。」

「でもさ、ちょっといいじゃん。淋しそうでさ、守ってあげたいって感じ。」
「ハン! お前じゃだめさ! マキ一途って、話だ。」
「えぇえっ、もったいないなあ。」
「ネェ! マキにサ。この前教えたのよ、あの坊やのこと。あんたを見てるよって。」 
「うんうん、どうなった?」
「こう言うの。あたしのファンなんでしょ、って。」
「えぇっ、ほんとにそうなの?」
「らしいわよ。沙織が声かけてもさ、ごめんなさいだってえ。」
「あの沙織をムシしたの? やるうーぅ!」

 少年の目は、又二人の方に移った。が、そこにはもう二人の姿は無く、背の高いがっしりとした男が一人、唯々踊り狂っていた。慌てた少年は、キョロキョロと見回した。と、少年の肩をポン! と叩く者があり、と共にプーンと甘い香りが少年を包んだ。
「又来たの? 坊や。」
「あ、いえ。…あの、…いえ…。」
 しどろもどろに答える少年だ。
「フフフ……、いつまでも子供ね。コーラなんか飲んで、純情でかわいいわ。」  
 耳元で囁き、体をすり寄せてくるその女に、少年は弾かれるように身を引いた。そして、しげしげと女を見つめた。

薄茶色に染められた髪を二つに分け、後ろで一本に束ねている。描かれた眉毛は細く、半円のように滑らかだった。その下の瞳には、コンタクトのブルーレンズが入っている。つけ睫毛がとても長く、スラリと伸びた鼻と呼応して、エキゾチックさを醸し出している。その唇は、真っ赤に塗りたくられている。そのくせ能面に近い程の無表情さを漂わせている。

 女が、目を落として言った。
「今夜、あたいヒマなんだ。付き合ってもいいよ。」
 その声には、どことなく暖かい響きが感じられる。いつもの投げやりな言葉ではなかった。そしてそう呟いた時の女の目は、一瞬間ではあったが恥じらいに輝いていた。

 が、少年の口からは、何も返らなかった。頬を赤らめ、空のコップを見つめているだけだ。女がそっと、指をからませた。そして、胸元に引き寄せようとした時、信じられない痛みを頬に感じた。そしてその痛みに気付いた時には、少年はカウンターの席を立っていた。

 女は頬を叩かれた痛みよりも、物言わざる少年の目の光りの方が、強くこたえた。
「わざわざ女から誘ってやったのに! なに様のつもりよ!」
「まだネンネの男の子なんだよ、勘弁してやんな。」
 バーテンの差し出した水を一気に飲み干すと、女は、また踊りの中に身を投じた。

 店を飛び出した少年は、“こんな筈じゃなかった!”と、自戒の念も込めて呟いた。憧れにも似た感情だった。未知なる、大人の女性への好奇心もあった。幼くして母親を亡くした少年には、異性が身近にいない。ましてや、ネクラと言われる性格の故に、女友達もいない。友人達のエロ話の輪にも、入れない。

 不良のたまり場とされるあの店に行けば、異性と誰もが話をできる、そう思いこんでいた少年。話って…、どんな話を…? 逡巡していた時の、思いもかけぬ女からの言葉。唯々混乱するだけだった。17歳 ― Rolling Age 。

 翌日の夕方、Go−Go−Snackの店先で、一人のフーテン娘が焼身自殺を遂げた。遺書の無いこの事件は、世界各地で頻発していた「ベトナム戦争への抗議の自殺」と同列に扱われ、こぞってテレビで報道された。

 白い埃だらけのこの舗道を、笑いながらしかし涙を流す少年が歩いていたのは、この事件が報道された夜更けのことだった。
 月は、満月だった。