右に、行け!


 ある冬の街角で…。

 そう、少し雪の散らつく寒い夜のこと。ダウンジャケットのポケットに迄、冷たさが忍び込んでくる寒い夜のこと。
 路面がうっすらと雪の化粧をし、街灯の灯りで眩しい。辺りを静寂が支配している。降り続く雪に、街の声は吸い込まれている。聞こえる音と言えば、“キュッ、キュッ”という靴の音だけだった。

 灯りの消えたビル群が、魔物の巣窟のようにそびえ立っている。大きく口を開けて私を吸い込もうとするように、時折“ゴオー!”という音が聞こえてくる。その時だ。その声と共に、実に不気味な声が聞こえてきた。後ろから恐ろしく気味の悪いーお腹からしぼり出すような掠れた声がした。

「だめだ!左はだめだ。右に、行くんだ!」
 背筋を氷が滑っていく。
「だめだ!左はだめだ。右に、行くんだ!」

 思わず後ろを振り向いた。全身が血だらけで片腕のちぎれかけた男が、呼び止めている。更には、生々しいタイヤの跡が、顔面に刻み込まれている。
 その男、確かにどこかで見たような気がした。が、あまりの形相に思わず目をそむけた。そしてそのまま駆け出し、左へ折れた。

 そう。男の言う、行ってはならない左へ行った。と、ふと思い出す。血だらけの男の居た場所は雪が白かった、確かに白かった。

 美しき魔女たちの誘惑に乗らなかった私への褒美がこれなのか。いや、清廉な日々を送ろうとする私への、懲罰なのか。
「雪、止んでないよ。ゆっくりしていきなさいな。何だったら、お泊まりもOKよ。」
 目がくるくると回る愛らしい女の、そんな言葉を背にしての、私だというのに。後ろ髪を引かれる思いをぐっとこらえて、振り切ったというのに。

 曲がりきって、あの男から逃げおおせたと気を許した瞬間、凍結した路面で足を滑らせ、道路の中央に転んだ。
 その時、車の滑る音を耳にした。その音を耳にした時、私の目の上をタイヤが滑っていった。何だ、これは! 一体、どうしたことだ。目の上にタイヤだとは…。

「だめだ!左はだめだ。右に、行くんだ!」
 精一杯、腹からしぼり出すように、私は叫んだ。