罪と罰



”人間存在”ということを意識し始めたのは、高一の後半だったろうか?頂点は、高二の夏休みと思う。その頃某大学内において、ガン細胞を植え付けたハツカネズミ共の世話(バイト)をしていた。
”くれぐれも気をつけて!”と、毎日のように言われていた。私を気遣ってのことではない。
ネズミの世話で手を抜くな、ということである。臨床的に大事なことである。ガン治療の為に大切なのである。ネズミといえども、生き物である。教授は、いつも手を合わせているとのことだった。

しかし、私は嫌だった。何より臭い。体に染みつく、ツンとくるにおいには閉口した。
ネズミはジッとしていない。落ち着き払っているネズミは、重病である。別の意味で、気をつけて世話をしたものだ。とにかく、嫌だった。が、今では懐かしく思えてくる。それはその仕事ではなく、ーあの臭いに耐えられない現象ではなく、その本質=具現化されるものではなく、観念的ーを懐かしく思うのだと、推察する。

異性に対してもーいや人間に対してもそう考えられる。相手と話をしている時で、最も話がしやすいのは精神的に孤絶している状態、しかも相対していないときである。相手の顔を見ていない時である。つまり相手という形あるものではなく、声という無形のものに魅かれるのだ。そこに楽しさを感じているのだ。

”精神的快楽” 自分では、そう定義づけている。

”人間存在”という問題にしても、そんな気がする。卓上論理をこねまわしている時が、小説内でー自分の空想の世界での行動は楽しいが、実行ということになると無味乾燥ということになってきそうだ。あくまでもそれは想像であり、まだ実行には至らない。がそこに実行という形がない故に、何に対してもーあらゆるものに対処し自信を得ても、不安がつきまとう。だから、常に自分の存在というものをびくびくしながら見つめているのだ。歯車の一個たらぬまいとして、存在価値を見いだそうとして焦り、そして不安がっている。

テーブルの上のみかんを取ろうとしながら、その後の罰に恐れをなしているのだ。
罪ではなく、罰を、だ。